沖縄県の善戦。歴史が語るもの

私は、沖縄県の代表の試合を見るのが好きなんです。なぜか異国情緒がただよい、なんとも言えない空間が沖縄県代表の試合には流れるのです。数年前には、八重山商工という、沖縄県でも離島にある高校が甲子園で大活躍しました。その高校が注目を浴びている時も、おおらかな沖縄県の県民性と、野性味あふれるプレーも感じられ、私は一気に沖縄県代表のファンとなったのです。

歴史を紐解くと高校野球のこともよくわかるんです

沖縄の高校野球は、沖縄本土が、アメリカ占領時にまで遡ります。そう、沖縄県は、日本で結一、地上線が行われ、沢山の尊い命の戦争によって奪われました。そして、アメリカに占領され、アメリカ国となり、日本へいくにはパソポートが必要ということまでなりました。その沖縄県代表が、戦後甲子園に出場するのは、特別枠で、1958年に首里高校が出場しています。その出場から、半世紀以上がたち、沖縄県は、野球強豪県の一つとして数えられるようになりました。沖縄が、日本へ返還されたのは、1972年です。戦後苦しい状況下に置かれた沖縄県ですが、こういった反骨精神が今の沖縄県を支えているといっていいのです。このことを知らずして、沖縄の高校野球も語ることができません。

沖縄県の強豪校といえば、私の時代ですと沖縄水産が強豪でした。栽監督といった名物監督がおり、2年連速で夏の甲子園準優勝をした時もありました。九州共立大学から、巨人に進んだ大野倫もその時の教え子で、巨人では主にバッター、強肩の外野手として活躍しましたね。

また、最近では、興南高校や、沖縄尚学高校が強豪となってきており、春、夏の甲子園でも、優勝するようになりましたね。今年は、沖縄尚学が好投手を要して、甲子園の土を踏みました。私としては衝撃的だったのは、沖縄水産から、九州共立大へ進み、ダイエー(現在のソフトバンク)で1位指名をうけた、新垣渚投手が印象に残っています。彼は、松坂世代と言われる中の一人で、甲子園でも150K台をたたき出していました。190cmを超える長身とで、松坂投手より将来性が豊かではないかともいわれていました。その彼もベテランの域に達しており、今年は、ヤクルトに移籍し、再起を図っていますね。

だからやめられない、沖縄県代表に釘付けです

こういった時代を反映しながら沖縄県の高校野球も進化してきました。遡れが、琉球王国の時代もあり、独自の文化をもっている沖縄県。戦時中は、日本唯一の激戦区になり、地上戦が行われました。観光地として、暖かく、コバルトブリーの海が頭に浮かびますが、それだけではない、沖縄の歴史が深く刻まれているのです。そこのことを私たちは忘れてはいけません。そして、高校野球です。あの独特の応援もあり、沖縄県代表の応援をするのは、とても興奮するものです。

来年からはどんな選手が飛び出してくるのか、沖縄県の球児には、目を離せないのです。